1921年、オンドレイが汽船の切符とピッツバーグまでの旅費をジュリアに送ってきた。ジュリア・ウォーホラは決して「アメリカナイズ」されなかった。死ぬまでチェコのルーツに忠実でありつづけた。祖先が信仰していたギリシャ正教会に通い、日曜日のミサ以外にも、たびたび教会に足を運んだ。家では、チェコ語を使い、息子たちにも教えた。年上の2人、ポールとジョンは母を喜ばせるためにときどきチェコ語で話したが、アンディは絶対にしゃべらなかった。これは、アンディがアメリカ的なものに執着した最も早い例である。だが、ポールとジョンが幼かった頃、周囲にチェコ人以外に話し相手はあまりおらず、母親のためにチェコ語を話そうとした二人の努力はむしろ裏目に出た。二人の英語には「おかしなアクセント」がついて、よその子供たちにからかわれるはめになったのだ。小学校に入ると、訛りをなくすよう矯正しなけらばならなかった。
参考文献/「伝記 ウォーホル パーティのあとの孤独」フレッド・ローレンス・ガイルズ著 野中邦子 訳